ゼロワンPが見た最新のAIが出るSF作品は『ターミネーター2』説(仮面ライダーゼロワン批評)
明けましておめでとうございます。
もう少しでザイアとの生け花対決が待ってると思うと2020年早々憂鬱ですねぇ。
さて、ゼロワンも一週休みの中、冬映画の宣伝でインタビューに答えていた大森プロデューサーの発言でいくつか引っかかるところがあったので、つらつらと書いていきたいと思います。
まずは『“腹筋崩壊太郎ロス”の誤算』から
“腹筋崩壊太郎ロス”がツイッターのトレンドの1位になるくらい盛り上がったことは、僕らからしたら完全に誤算で、目からうろこが落ちたというか。
『ここが響くんだ』って(笑)。
https://mantan-web.jp/article/20191224dog00m200035000c.html
つまり、響かないものとしてネーミングのギャグだけを勝算に作っていた、ということですよね。
以前ブログにて書いた「“ゆい”というヒューマギアを覚えていますか(仮面ライダーゼロワン批評)」を参照して頂きたいのですが、誤算でもなんでもなく視聴者的にAIモノのトレンドとして淡々とアンドロイドを潰していく作風は時代に合っていなかっただけの話で。
そして、こう続けます。
でも、それが逆に“ゼロワンらしさ”を生んでいると思うし、特色になっているというか。
ただ悪い敵が出てきて、仮面ライダーが倒すだけじゃなく、主人公が苦しみながらヒューマギアを倒して、そのヒューマギアに視聴者が同情を寄せる。
フォーマットと言えるほどではないにしても、それは“仮面ライダーらしさ”にもつながってくるものなのではないかと思っていて。
今はいい誤算だったと捉えています
そのAIモノの流行りを理解していないがために、視聴者の豊かな感受性が同情を生んだ結果、ゼロワンがライダーらしくなったとポジティブな誤算に捉えているのであれば、理解できるところの誤算を誤算しているということになります(笑)
繰り返しになりますが、これはライダーらしさではなく、ただのトレンド。
元々の、AIモノとして求められる風潮なだけです。
あんな第1話の構成にしていながら、腹筋崩壊太郎に同情を生まないものだと踏んでいたんですから、それはAIモノにおいて人間的な扱いに重きを置いていなかったと言えるのではないでしょうか。
単純に、腹筋崩壊太郎を悩みながら倒していない或人と後の悩みながらヒューマギアを倒す或人をすり替えて分析するな、と言いたいところもありますが。
そして、『自我が目覚めたAIの心の部分を描くべきか?』について。
別のインタビューで「ゼロワンは綿密な計画の上で作られたのか」という問いに
企画チームの皆さんに「AIを描くんだったら、人間と自我が目覚めたAIの心の部分を描くべきだ」と言われ、「そうなんだ!」って気づかされたくらいですね。
https://www.kamen-rider-official.com/columns/6
と答えていました。
この世の中に自我に目覚めるAIを描いた作品群が山ほど存在する現状を鑑みれば、考えられない発言です(笑)
なんなら、ご自身の初メインプロデュース作品である仮面ライダードライブですらチェイスで自我の目覚めに近い描写を描いているというのに。
しかし、上記の通り、AIモノにおいて人間的な扱いに重きを置いていなかったとするならば、合点のいく発言だと感じてしまいます。
2019年の夏、新シリーズ『仮面ライダーゼロワン』の発表が行われた際には一部界隈の間で2018年に発売されたPS4用ゲーム『「デトロイト・ビカム・ヒューマン」の世界が仮面ライダーで見られる!』と盛り上がりを見せていました。
AI技術とロボット工学の発達により、人間そっくりのアンドロイドが製造されるようになり、人間は過酷な労働から解放されようとしていた。
それにより人類は更なる経済発展を手に入れる一方で失業率が増大。
貧富の格差が拡大していった。
アンドロイドによって職を奪われた人々は反アンドロイド感情を持つようになり、排斥運動にまで発展していった。
2038年8月、家庭用アンドロイドが所有者を殺害し、所有者の娘を人質に立てこもる事件が発生した。
そのアンドロイドはまるで意思や感情を持つようで「変異体 (Deviant)」と名付けられた。
以後、変異体はその1体にとどまらず、増え続けていった。
「変異体」には、与えられた仕事を放棄し逃亡したり、中には人類からの解放を叫び「革命」を起こそうとする者もいた。
アンドロイドは単なる「便利な機械」なのか?それとも、生きているのか?人類は、新たな課題に直面する。
“アンドロイドが人間の代わりに働く”、“AIの自我(ヒューマギア≒変異体)”辺りが2つの作品の類似点になるのでしょうか。
しかし、いざ放送が開始され、蓋を開けてみると、作り込まれた世界観という観点で見ればデトビカの方が明らかに勝っていると思いますし、ゼロワンとは違い、腹筋崩壊太郎ロス的な受け手の感情を想定した丁寧な描写をしている分、個人的には同一視してしまうにはおこがましい出来の作品でした。
AIの専門家に話を聞いただけあって、技術や法に関するアンドロイドの未来については最先端を行っても、肝心のドラマ部分は人間同士のやり取りでさえ血の通ってないかのような言動ばかりで、登場人物は全てヒューマギアなんじゃないかと思えるほどにお粗末です。
放送前のものではないのですが、最近の記事で私の見解と違い、デトビカとゼロワンを割と同一視し、キャッキャしている方の記事をゲーム情報サイトで見つけたので、「こんなニュアンスで盛り上がっていた」という空気感の参考になればと思い貼らせて頂きます↓(ネタバレ有)
『Detroit: Become Human』をプレイしたら「仮面ライダーゼロワン」がもっと面白くなった【年始特集】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト
さて前置きが長くなりましたが、本題に。
そうなってくると、作品に携わるプロフェッショナルであるはずの大森プロデューサーの中で、意図的であっても、潜在的であってもAIモノとして参考にした作品はなんだろうという疑問が逆に沸いてきます。
そして、辿り着いたその作品は名作のあの1本でした。
それは―――
(ダダン ダン ダダン)
(ダダン ダン ダダン)
『ターミネーター2』です!!(記事のタイトルで分かるよ)
これからの文章は、もう皆さんが『ターミネーター2』をご存知のテイでバシバシとネタバレしながら話していくので未見の方はご容赦ください。
また、小さい頃、私自身もターミネーターシリーズが好きでロードショーでもなかなかやらないディレクターズカット版を見て育ったがため、その記憶からお話ししてしまうの可能性があるので、オリジナルの未公開部分についても言及してしまうことも合わせてお許し頂けたらと思います。
(未公開部分の参考wiki→https://w.atwiki.jp/movie_virsion/pages/14.html)
『ターミネーター2』のT-800型(以後、シュワちゃん)は1作目の追手の時とは違い、主人公のジョン・コナーを守る味方として未来からやって来たわけですが、彼はプログラムされた使命だけで動き、従事すべきジョン・コナーの命令を倫理観などに囚われることなく応じていきます。
ここで近年にありがちなAIの 自身が人間でないことへの葛藤や、命令抜きで人間らしく振舞おうとすることの判断する描写は一切存在しません。
だからこそ、人間の思考に理解を示しつつも、未来のために潔く溶鉱炉に落ちて行ける名シーンへと繋がるわけですよね。
AIという要素はありながら、シュワちゃんの自我の目覚めという近年のトレンドに頼らずに名作となったのです。
このシュワちゃんのアンドロイドとしての自身の生にこだわらない姿勢だけを参考にしたのであれば、大森プロデューサーの考える“腹筋崩壊太郎ロスの誤算”や“自我に目覚めたAIの描写に必然性を覚えない”傾向に疎いとも取れる発想に説明が付くと思うのです。
他にもゼロワンに通ずる描写を挙げていくと、
・冒頭のアンドロイドが支配する世界で戦うレジスタンス(冬映画)
・最悪の未来を回避するために過去に戻って戦う(冬映画)
・自宅への電話でジョンの声色に合わせるシュワちゃん(セイネ)
・シュワちゃんを信じるジョンとシュワちゃん壊すべきとするサラ(或人と不破)
・アンドロイドなので自然に笑えない/笑顔を検知するシュワちゃん(其雄/イズ)
・特定の言い回しを学習するシュワちゃん(イズ)
・人間を愚かな種族としたスーパーコンピューターのAIが人類を滅ぼそうとする(アーク)
・サラに理想の父親代わりになれると思われるシュワちゃん(是之介→其雄)
・息子を残して逝くAI技術会社の責任者であるダイソン(其雄)
・シュワちゃんをジョンだけが強く人間視している(或人)
といったところでしょうか、考えてみると2作目だけでも結構ありますね。
2019年内の内容だけをピックアップすると、ターミネーター2がゼロワンの構成の基軸となったと言っても妄言にはならないと思います。
…ゼロワンのアイデアが大森プロデューサーの脳内に留まってる時点では。
話を戻します。
世の中の流行は置いておいて、このシュワちゃん的 ある種ドライなアンドロイドに対する価値観で考えていけば、或人がバッタバタと暴走するヒューマギアを破壊によって解決していくスタンスにキャラクターのロスを嘆く反応を想定しないのは妥当な判断に思えるという話は上記で述べました通りです。
では逆転して、シュワちゃんに死ぬことの躊躇いや、人間らしく「生きたい」という願いを見せる場面を追加してしまうと、ターミネーター2の溶鉱炉に沈めるシーンはあまりにも酷く無慈悲なものになるでしょう。
例えば、ゼロワン第7話のコービーのように命乞いに近い思いを語った後で溶鉱炉に沈めたらどうでしょうか?
それこそ、そうなればシュワちゃんロスとして歴史に残る胸クソ展開として語り継がれかねません。
つまり、『ターミネーター2』をスタッフに言われるがままAIの心の動きを比重を置いて再構築してしまえば、物語の悲哀のバランスが崩れてしまうのでシュワちゃんのラストを変えなければならなくなる、そして、それを変えずに突き進んできてしまったのがゼロワンなんです。
ゼロワン第1話が終わった直後の感想から、「何故、望んで怪人化したわけではないヒューマギアを木端微塵に壊してしまう構成にしたのか」という疑問はネット上で見られましたし、私もそう感じていました。
エグゼイドでいうところのリプログラミング的な対処で倒してしまえば、ヒューマギアをいちいち破壊することなく、もっといえば腹筋崩壊太郎ロスという新仮面ライダーの誕生譚にはノイズとなる別の無慈悲さを回避できたということは、作る側ではない視聴者にも容易に想像がつくことです。
ゼロワンのパイロット版を手掛けた監督を除いてしまうと、エグゼイドコンビのプロデューサーと脚本家ですし、尚更にこの想定に行き着かなかったことがおかしいんですよね。
何故、この自我と怪人の倒し方であべこべな構成にしてしまったのか真意は不明ですが、脚本家はともかくとして、メインプロデューサーである大森氏がゼロワンを創るにあたって近年のAIモノの作品の鑑賞はサボり、AIの専門家の意見を聞くことだけで満足し、他の人間のアイデアに頼ってしまったことは間違いないとインタビューから透けてしまうでしょう。
おめでとうございます。
— 白倉伸一郎 Shin-ichiro SHIRAKURA (@cron204) 2020年1月1日
2019年に観たインド映画は88本でした(合作含まず)。個人的ベスト10に、ゾーヤー・アクタル監督作が3本。同監督にハマった年だったようです。
(対照的に昨年担当のシリーズを終えたのに勉強熱心なジオウPの図)
テレビ番組の最先端AI技術特集を見てゼロワンの構想に入ったと語るぐらいですから、創作物のAIモノに感化されていないのは断言できます。
大森プロデューサーが最近のSFに触れてるかは別にしても、ターミネーター2辺りでアップデートが止まっているレベルなんですから。
むしろ、AIモノに対してまっさらであれば新しいAIモノが作れたかもしれないのに、どうしてこうもスタッフの言葉に左右され、名作を彷彿とさせる上部のアイデアをすくってお茶を濁してしまうのでしょうか。
毎エピソードの終わりに感じる後味の悪さだけなら誤算の通りトップレベルで新感覚の不快感です。
そんなにAIに興味あるなら、ドラマじゃなくて産業ドキュメンタリーでも撮ってればいいじゃんね。
(ダダン ダン ダダン)
ではまた、薄ら寒そうな生け花対決が終わった頃に――
(ダダン ダン ダダン)
地獄で会おうぜ、ベイビー。
(ダダン ダン ダダン)