ルナ太郎の腹筋崩壊ブログ

私は…仮面ライダーゼロワンの気になった所を大人げなく殴り書くのが仕事だから!

実在感がないリバイスって劣化版オーズ?(仮面ライダーリバイス第11話周辺の感想)

「さくらって世紀末の、力が全ての世界から来たんか(笑)」

 

私の世代でもない、恐らく『北斗の拳』的な作品なんであろう揶揄を散見しました。

他にも「『鎧武』の戒斗みたいな作り話的なキャラだから成立するんだよ」なんてのもあったかな?

もう作劇としてのダメさなんて分かりきったことの言及をするつもりもないんですが、そこで「『リバイス』にリアリティを求める滑稽さ」と「さくらに実在感を求めるファン層の深層心理」みたいものに興味が湧いたんですよね。

 

 

リアリティってなんだ

まず、逆にお聞きしたいんですが、『リバイス』の他のキャラは現実に有り得る人物像なのかと。

 

今時、家業を継ぐために若くして夢を諦めたお友達って知り合いにいますか?

親が長男ばかりを贔屓しないのにコンプレックスを抱く次男を媒体でも見たことありますか?

 

そもそも、意味もなく空を漂う飛行タイプの戦艦風アジトにリアリティを見出だそうとしない時点で、ケレン味優先の『リバイス』にリアリティを求めるのお門違いよねって気がします。

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いきなりの大風呂敷にドン引きした思い出

地下に潜伏する地下アジトと対比で空に飛ばすにしたって、ライダー担当することになって戦争もの知るために脚本家がガンダム観漁って引用した『ビルド』じゃないんですから。

 

 

フォロワーさんが「アレはMCUコンプレックスだ」と称していましたが、まさにそれで、あんな離着陸場所の設定も無さそうな、隊員の偵察にも移動手段の描写もなくただ浮いてるだけの機関に何か意味があるとお思いですか?

あの空飛ぶ基地からリバイスのようなホバーバイクに跨がった隊員が急行するとかならまだ分かりますよ。
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TVも見れるスマホの会社がわざわざTV飛行船飛ばしてたテキトー未来も大概

 

…おっと、空飛ぶ戦艦ごときにここまで怒れてしまいました。

そこに来て、『デッドプール』みたい気の利いた脚本書けないのに、第4の壁を破って好き放題するバイスですよ。

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既にそのハッシュタグ存在してたよ

リアリティを追求するような作品じゃないと把握されているなりに五十嵐さくらには実在しうる人物像を求めるってなんなんでしょう。

雰囲気だけの"作り物"に対して早々に嫌気が差した身としては「今さら?」という感じなんですよね。

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言ってみれば、平成ライダーが長らくのお休みを経て再起出来たのは、『クウガ』のこのリアリティの線引きが当時の視聴者に刺さったからと言っても過言じゃないでしょう。

あのリアリティに対する追求の好みは分かれるところではありますが、現代が差す『ライダー』の必要不可欠な要素があります。

クウガ』がその最たるところだとして、『アギト』以降は設定や人間としての苦悩など、何かしらでリアリティを以て実在感のある作品が作られて来たように思うんですね。

単に設定だけの話でもなく、突拍子もない人格も物語を構築するリアリティの有無に関わる要素だと思いますから、重要なことだと思います。

 

『ダブル』ではキャラクターが二次元的な脚色であっても架空の都市"風都"については作り込むことで実在感というリアリティを持たせています。

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個人的に漫画化・アニメ化は完全な二次元になってしまうので否定派

対照的に『オーズ』…小林靖子脚本全般に言えることかもしれませんが世界観こそはぶっ飛んでいてもキャラクターの生き方にリアリティが感じられることで荒唐無稽さが抑えられているように感じました。

 

『フォーゼ』以降は、二次元的世界観に二次元的キャラクターでライダーらしさが格段に薄れていったように思いますが、何故ここに来てファンの間で五十嵐家の面々に実在感が求められるようになったか不思議でしょうがありません。

(『ビルド』みたいな虚構の塊が実在感のあった『ダブル』と似てると言われるのは心外、ガワだけで語んな)

 

『リバイス』の方向性として鼻につくほどの"負の感情のリアリティなら出してます感"から「靖子脚本になれなかった作品」と化してしまったのか、フィクションとリアリティの『オーズ』的なバランスの取り方を無意識に皆さんの中で求めてしまったが故の劣化版的な立ち位置の称しやすさになってしまったのか。

逆にアンクが「テレビの前のお前ら、ハッシュタグつけて応援しろ!」なんていう作品だったとしたら媚びないなんてまだ生温い、相当なリアリティでのバランス取りが必要になるので、その状態に達してる『リバイス』はある種の詰み状態な気もします(笑)

 

 

武闘派女子は創作の中だけ?

じゃあ何故『リバイス』において、例えば誰かの言うように戒斗は良くて、さくらはダメなのかと考えた時に、フィクション性の高さだけでなく多少のジェンダー的な見方も絡んできているような気がします。

普通の女子高生が力に枯渇することはおかしいのであれば、未だにタピオカジュースに固執する他作品の女子高生はナチュラルなのかという話で。

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※近未来のお話です

ネット民がすぐにネタにしたがる強さへの探求心が人一倍あるストイックな女性スポーツ選手もいますし、現実に存在しない思考でもないと思うんですよ。


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逆にこちら側の色眼鏡を外せば、男性だって「強さが全て」と力を持つことを強いられる時代ではなくなってきましたしね。

 

 

結局のところは所謂"女性語"と呼ばれる「ですわ(ね)」などと言いながら女性"らしい"とされる振る舞い、思考の女性的"型"の持ち主であればキャラが現実離れしていようがステレオタイプ化した方が受け入れやすい傾向にあるんじゃないかと思うんですね。

ギャップ萌えみたいものの作用もあるかもしれません。

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そこに説得力を持たせて描けなかったのは脚本家の力不足に他ならないのですが、そういった意味ではアギレラの「ぴえん」などと言った女の子っぽい所作も、さくらと対極に置くための造形にさせられ、中年男性の思い付きそうな女子っぽさの"押し付け"が感じられるなぁと思った次第です。

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その方がライダー好きな層には許容どころか愛されていくなんてホント面白い話なんですが(笑)

 

https://twitter.com/yamazakura5963/status/1420688181117153289?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1420688181117153289%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fsongen.hateblo.jp%2Fentry%2F2021%2F08%2F13%2F031815

 

https://twitter.com/yamazakura5963/status/1420688181117153289?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1420688181117153289%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fsongen.hateblo.jp%2Fentry%2F2021%2F08%2F13%2F031815むしろ、一時期「女性ライダーを主役に!」と訴えていた一部の意識高い系の層に大変お気の毒な話なのですが、それ以前に作り手も受け手もそこまで意識が育っていない、かえって世の中へのメッセージ性すら受け取れない界隈の成熟しなさっぷりを痛感するばかりです。

年々、意識高いアピの声はデカいだけで、ウケ狙いの安直な方に退縮してる気さえしますし。

 

何せよ、結果的に、さくらとアギレラの対立構造はあらゆる面で相乗効果でどちらも嘘臭くなってると思うんですよ。

言動もそうですが、さくらの中の人の持つバレエのしなやかな動きと実際の空手道のメリハリのある動きは対照的なものですし、対峙するアギレラの普段の腕に覚えが無さそうな所作と地続きなスタントなしの殺陣も圧倒的な強さに直結しておらず、この画作りに終始「立ち回らされてる」感じがしますしね。

逆にさくらの型がある固い動きに対して、アギレラの中の人がバレエ経験者で軽やかにさばく…なんてアクションだったら説得力がある演出になったような気がします。

「こういう綺麗どころの二人に因縁がもたらされるのが面白い」、その一転突破の価値しかないなと。


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ライダーを目指す動機に関しても、いっそ、ジェンダーの部分は開き直って全面に出すというのはどうだったんでしょう。

例えば、

 

さくらが力を求めるために男幹部に圧倒的大差をつけられ、その中で男兄弟に「お前は何もするな」とたしなめられる。

幼少期にも年上の男の子にいじめられ、それを助けてくれたのか兄二人だった。

それが悔しくて"無敵"を求め、武道を始めた

 

…とすれば、現在と過去の状況がクロスし、さくらが力を求めライダーになるキャラだったとしても「世紀末に生きるキャラじゃないんだから」なんて言われを受ける必要がなかったような。

 

 

強さへの探求については『電王』のキンタロス登場回を私は思い出すのですが、「強くなりたい」という欲望に翻弄されるという意味ではやはり『オーズ』に近いのでしょうか。

…そうです、欲望に対するエゴや悪意をフィーチャーしているだけの違いで、それを仰々しく悪魔と謳ってる『リバイス』って段取り的にも、やっぱり劣化版靖子ライダーであり、劣化版『オーズ』なんですよね。

人の心に棲む「悪魔」に定評あっての脚本家の起用でしたが、そもそもがその手の本質を描いたものは既に良質なシリーズがあったよねという再確認になってしまいました。

 

 

ヒーロー像は変わっていくと言いますが

『鎧武』以前にもリアリティのないライダー変身者はいた気もするのですが、皆さんの中でライダーのキャラクターってどういう捉え方をしているんでしょうか。

私たちってそういうリアリティの中のフィクション性からライダーに憧れ、愛していたんじゃなかったのかと。

 

言ってしまえば、2000の技を持ち、笑顔のために自己犠牲の上で戦う青年だって「そんな奴いない」と卑下されても全然おかしくないと思うんです。

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そこに強い説得力を持たせようとしたのが、『オーズ』にて伊達さんが火野映司の見返りの無さを気持ち悪がるシーンだと思います。

「自分が命を懸けることで誰かを守ろうとする人間と、誰も信用置けない世界で自身が力を付けることにアイデンティティーを見出だす人間の、こんなご時世にどちらにリアリティがあるのか?」、私の中でも明確に答えは出せていないのですが『リバイス』へのツッコミを見るにファンもヒーロー像が大分ブレているように感じました。

昨今の出来の悪さに私も見失いかけそうです(笑)

 

『セイバー』でユーリがヒーローの形は変わり、遠い存在の孤高の戦士から多様性も必要とされ、親近感さえを持ち合わせた、言わば自分の写し鏡であるキャラ像さえも肯定されるような台詞を言っていましたよね。

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※アメコミを持ちながら

令和に切り替わり『ゼロワン』や『セイバー』、つまんないことを恥ずかしげもなく大声で言ったり何でも創作に絡める空想ヲタク脳の主人公だったりと一点では近い人物像に寄っては見せたのかな?

しかし、そういう変化を制作でさえ肌で感じていながら、過去作と違い、主人公とご存命の家族を巻き込みながら語っても、それでもなお視聴者にとってリアリティを思わせられない辺り、やはり『リバイス』にも期待は出来ないように感じてしまいます。

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20年後にこの程度とは牛歩がすぎる(むしろ後退?)