ヒューマギアが職業AIならアイちゃんは友達代行?(仮面ライダーゼロワン36話「ワタシがアークで仮面ライダー」感想)
地方から出てきたばかりで友達がいなかったので。
地方から出てきたばかりで友達がいなかったので、週末一緒に買い物したり、ご飯を食べに行ってくれる友達の代行をお願いしました。
おしゃれには鈍感な私でしが、色々とアドバイスして頂きまして、おしゃれなコーディネートができました。
ご飯も楽しくお話しながらできて、最高の時間でした。
また、是非よろしくお願いします。
あ、いっけね!
間違えた!
滅、亡、迅、雷の四人がそろったデイブレイクタウンでは異変が起きていた。誰も見たことのない物体が今にも生まれようとしていたのだ。
それは、人知を超えるほどの邪悪な気配をまとっていた。
一方、滅に父親としての夢があったと信じる或人は、飛電製作所の社長だからこそできる新たな人工知能技術の開発を意識するようになっていた。
そんな或人は、ある行列に並ぶ不破諫の姿を目撃して―――。
<彗星のごとく現れたおやっさん枠>
アイちゃんの登場により『ゼロワン』の足りなかった要素が浮き彫りになったように思います。
それは”おやっさん枠”です。
個人的に、仮面ライダーにおける“おやっさん枠”の定義は俳優としてキャリアがありネームバリューもある、主人公がアジトとする場所の所有者であり、悩める主人公に内面的な支えとなるものだと思っていますが、公式の示す平成ライダーシリーズの「おやっさん枠」はこちらの図鑑から。
『ゼロワン』のプロデューサーである大森氏が過去に手掛けたシリーズのおやっさん枠はどうだったか振り返りつつ、『ゼロワン』でのおやっさん枠について考えていきたいと思いますと思います。
『ビルド』
石動惣一(エボルト)
アジトである喫茶ナシタの中年のオーナーと見本のような おやっさん…と言いたいところですが、このビルドという物語の全ての元凶で、メインヒロインの石動美空の父親に寄生した黒幕という立場からおやっさんの中では邪道中の邪道だと思っています。
「おやっさん枠」にカテゴライズされていることがおこがましい、個人的にはライダーシリーズでもっとも嫌いな おやっさん枠です。
『エグゼイド』
鏡灰馬
2号ライダーポジ鏡飛彩の父親であり、アジトである病院の院長であることからおやっさんポジ扱いになっているんだと思われます。
しかし、頼れて悩める永夢を受け止めていたかというとそういう描写は少なく、永夢自身が人に寄りかからないため、飛彩を案ずる父親の面が強かったように感じられました。
『ドライブ』
本願寺純
主人公 泊進之助が所属する特状課のリーダーであり、実はベルトさんと密な協力者だったというところでおやっさん枠としています。
その点においては異論がないのですが、受け止めているかという点では泊のバディであり、変身ベルトであるシュタインベルト(通称ベルトさん)にその役割が強くかかっていました。
また平成ライダーシリーズで初めて正式に恋仲になるメインヒロインの詩島霧子は人としての泊のバディに相当おり、本願寺純の悩める主人公を受け止める役割はかなり薄いものだったように思います。
さらには、初の仮面ライダーに変身するおやっさんという肩書きで話題にもなっており、「まともに闘えない」というオチで戦力にならなかったものの、こちらも邪道なおやっさん枠に分類されるべきでしょう。
と、大森ライダーのおやっさん枠にケチをつけてきましたが、ゼロワンも漏れ無くおやっさん枠に不満があります。
俳優のキャリア的に見れば西岡徳馬氏が演じる是之助ですが、第1話は是之助の訃報から始まり、第1話からおやっさん枠を放棄してします。
主人公に身近な中年男性という見方をすれば福添副社長ですが、或人とは袂を分かち未だに主人公を支える立場には程遠く、支えるという役割で言えば、秘書のイズがそれを担っています。
しかし、彼女はまず第一にメインヒロインの立場である上に、或人から最も身近で夢や情熱を教わる狙いのAIロボットのため、支えきれているかというと各ゲストヒューマギアにピンチを伝えるか、ゼアと繋がるか、プログライズキーと武器を運搬するかの文字通り秘書でしかありません。
かろうじて極稀にホットアップルティーを出すぐらいがおやっさん的行動でしょうか。
そうなると、各メインキャラクターが悩める時に物語に受け止めるクッションがいないなるわけです。
勿論、大森ライダー以外にもおやっさん枠が怪しいシリーズはいくつもあり、例えば、『フォーゼ』では俳優のキャリアだけで見ると鶴見辰吾氏演じる我望光明が適切のように思えます。
最序盤は学園の長として、寛容な教育方針を見せるところからおやっさん枠かと思わせますが、同じプロデューサーが手掛けたダブルに続き、または後のエボルトへと繋がるように、キャリアのある俳優は黒幕として配置いかれたことが明らかになっていきます。
主人公が所属するライダー部では途中から大杉先生が顧問になることでおやっさん枠が埋まったように思われましたが、元々頼りないキャラクターだったので、むしろライダー部の部長である風城美羽の方がアジトの長、若い女性でありながらおやっさんの枠としては相応しかったんじゃないでしょうか。
…と、フォーゼは大森ライダーのようにおやっさんの枠以上こそ不鮮明ですが、その分、豊富なレギュラー陣のライダー部員と、学園全体を受け止めようとする、見方を変えれば独善的な主人公 如月弦太郎そのものの姿勢のおかげで「頼れるおやっさん枠」は回ごとにローテーション的に補われていたのです。
(長くなるので割愛しますが、ダブルといい、塚田ライダーもおやっさん枠はちょっと怪しい)
ここでゼロワンに おやっさんどころか頼れる存在がいなかったという話に戻していきます。
不在のおやっさんを他のキャラで補うにも或人はダジャレ言いたくてしょうがない上にヒューマギアを楽観視しすぎですし、イズは或人信者、不破はAIの猜疑心がブレブレの割に脳筋ポジで勘が鈍く、刃は合理的で同じく口が悪い…この4人のやり取りの噛み合わなさがドタバタ劇としては面白くなるのかもしれません。
ですが、それでは1人のキャラが悩める時におちゃらけ過ぎたり、そっけなかったはずが急に親身になったりと不自然な展開になってしまいます。
急に刃が不破の言葉に心打たれたり、或人のギャグ以外の言葉が不破が響いたりする展開で「何故?」と思うシチュエーションを皆さんも目の当たりにしたはずです。
お話に新キャラを投入するとなれば、バランスを取るために必然的に空きがある立ち位置に配置されるわけです。
そして足りない役割に収まったのが『ゼロワン』ではアイちゃん、ということなのだと私は思います。
卵が先か、鶏が先か。
ゲスな勘繰りをして、テコ入れでネームバリューのある声優M・A・O*1氏を投入するためか、バンダイがおしゃべり玩具の新商品画策に動いたか、物語を円滑に手早く動かすために「頼れる存在」が必要だったのか、どれが先行して投入されることになったかは分かりません。
しかし、このタイミングでアイちゃんの投入されることの違和感と急速に面々と距離を詰めていく即席の異物感はここから来たのだと思われます。
福添の天津垓に対する反旗を翻す展開はあると思いますが、このままではアイちゃんがゼロワンのおやっさん枠に相当してしまいそうですね(笑)
(前にも書いた気がしますが、定期的に是之助の遺言で迷える或人のアドバイスとする“おやっさん枠”なら新しくて面白かったかも)
前回の感想記事をサボってしまったわけですが、アズという存在も敵サイドに足りないキャラを補填する役割があったように思います。
キャラ付けとしてイズと対照的な物言いにするためにあのチャラさになったとも考えられますが、滅亡迅雷.netにベラベラと喋ってくれるあの手のキャラが存在しなかったことのバランスを取るため、引き寄せられる形であの説明キャラとしての軽薄さを持つことになったとも考えられますよね。*2
そうしてアイちゃんの追加により、駆け足的に不破の家族問題は解決され、次は刃を許される者として、正式な仲間入りの橋渡しの役目を担わされたようですね。
作品外のメタ的視点から見ても、アイちゃんはゼロワンの頼りたいニューカマーのようです。
はたして違和感なく上手く機能してくれるのでしょうか。
<第35.5話の感想ちょっと>
感想をサボった懺悔ついでに。
35.5話でアークは復活を果たすため*3、滅亡人類.netの面々から、父性、兄弟意識、仲間意識、親への愛から発生したシンギュラリティをアズを介してラーニングしました。
何をキッカケに目覚めるかでシンギュラリティの質が変わるという設定はありませんが、ここまで他者との繋がりで芽生えた正の感情で復活したアークが今回、早々に仲間である滅や迅を非情に扱うか疑問でしょうがありません。
今まで人類が行ってきた愚かな歴史という表面的なものだけではなく、人の心を内から理解した結果、気持ちを弄ぶなどの悪意以外の思考も覚えるのが自然な流れだと思います。
その辺りの感情を学習しても、一緒に過ごした時間から主人公たちに家族意識が生まれなかったエボルトと同様に、単純化した悪が薄っぺらく感じる大森ライダーならではの、ラスボスにおきがちな薄っぺらい非道な父親を彷彿とさせますね。。。
この非情さが「アーク、お前は悪意しか学ばなかった!だから、夢や情熱を学んだ俺たちに勝てるわけがない!」などと或人を肯定するための安いツールになる予感がプンプンします。
『ダブル』のように歪んだでしまった父親の家族愛描けないところも大森Pが塚田Pの真似事をしてると言われてしまう所以なのでしょうね。
<「人の形にこだわる必要がない!」はアークのセリフやろ>
「私は考えた。或人くんの理念を形にすると、決してヒューマギア型にこだわる必要はない!と。これは大発見だ!」
このセリフについてはどの方もゼロワンの矛盾点として指摘されていることなので私が深く掘り下げる必要はないと思うのですが、飛電側から考えずに敢えてアーク側から人型の必要性を考えていきたいと思います。
AIものやアンドロイドもののSF作品である人工知能の人型に対する固執は説明しやすくするために以下の3パターンに大きく分類してしまいますね。
1.形を持たないAIが街のアンドロイドをジャックし、人間に危害を加えるもの
2.人型をしたアンドロイド種族が人類と戦うもの
3.人工知能が人型、もしくは人間に憧れるもの
1.は有名所では『アイ,ロボット』、2は『ターミネーター』シリーズ、3はアクションものではないSFハートウォーミング系全般にあると思いますが『A.I.』や『アンドリュー』、アクションものでは『ブレードランナー』等が挙げられますでしょうか。
まず、1では人間のように体を持たないボスがアンドロイドに人々を攻撃するようにしむけるアークのような存在です。
巨大なコンピューターの中に存在する彼はわざわざ自身が実体を持たなくとも間接的に攻撃を加えられるため、身体を必要とはしません。
対して、アークゼロは自身の力を物理的に誇示するために肉体を必要としました。
2の『ターミネーター』シリーズは、3以降に人型兵器以外も登場するものの、基本的にはシュワちゃんを代表とする人間世界に潜伏するため人型を模しているため、用途として人型のデザインとなります。
『アベンジャーズ2 エイジ・オブ・ウルトロン』もこちらに含まれると思われますが、こちらは他の方の記事が参考になると思います。(飛電或人vsトニー・スタークfeat.桐生戦兎 - SCRAPIKG<=SONGEN)
滅亡迅雷.netの時から疑問だったのですが、彼らが嫌悪する人間の形ままである意味が分からなかったんですよね。
基本的には陥落したデイブレイクタウンに籠り、言うほど街に溶け込んで工作活動をするわけでもないのに何故、忌々しい人類の姿を甘んじて受け入れているのかと。
復活した迅に至っては、復活を手伝った存在こそ不明ですが、デバイスの接続部分に耳型の新デバイスを付けることでより人間に容姿が近づいています。
結局、お話的に今までヒューマギアの進化というのは「人間に近づくこと」としており、ヒューマンとマギアを合わせた造語である“ヒューマギア”は人型が絶対条件のはずなんですよね。
それがここに来て「人の形にこだわる必要はない」という或人の理念の変化はこれまでを無にするものであり、この作り手は本当にプロなのかと驚かされました。
もはや、ヒューマンである必要もないと占い師ヒューマギアを出した直後に結論づけるとは、、、これいかに。
設定としての人型に固執するもっともらしさなんて特段なかったと終盤にぶっこんできたわけなんです。
これはおそらく、アイちゃん投入のための苦しい言い訳なんでしょうが、アイちゃんを入れ込むために東品川の母に留まらず、ゼロワンのヒューマギアを、今までを否定してしまうことになるんですが、よかったんでしょうか。
そうして、ヒューマギアはアンドロイドもののお決まりとしての「人そのもの」感+俳優の起用と過渡な特殊メイクを不必要にする都合、そして人々の仕事を奪いかねない存在を体現したビジュアルに、良いように解釈すれば平成ライダーから続く“別種族との種族戦争”、人間の擬態というオマージュがそれなりに込められていたという大人の事情だけが残ってしまいます。
倫理的に其雄ヒューマギアを手放しに肯定出来なくなれば、形にこだわる必要がなくなったのもまさに制作の事情でしょう。
アークがアークゼロへと変身を遂げるに至っては商品化される新たな仮面ライダーのため、人型であるというスタンスを守り続けなければならないというメタな制約でしかなかったということになります。
以前もブログで述べたかもしれませんが、ヒューマギアの自我や記憶がバックアップの取れるデータに変換できるのであれば、素体は魂を宿す肉体である必要はなく、あくまで遠隔操作するデバイスであったり、オリジナルのコピー体を送る方が消滅するリスクはなくなります。
今後、ベルトを実体に活動を移したアークを倒すことで一連の事が解決するようなことになれば、なぜ、アークはそこまでのリスクを背負って実体化したのかという疑問が生まれてしまうのですが、その辺りは大丈夫なのでしょうか。
3番目にAIが人に憧れる展開についてお話をします。
SF作品には自分の鉄の皮膚を嫌がった『アンドリュー』や、人間が人間に向ける愛を欲した『A.I.』など、人間にしか持ち合わせないものを欲しがる作品は多く存在しています。
実際に人間のような思考を持つAIが存在しないので空想の域を超えませんが、人間の目線で考えれば…例えば、私の五感や五体が満足に機能していなかった時、それらを正常に持ち合わせている人たちに憧れるのは想像するにも容易いです。
そのようなニュアンスで、「AIも肉体を欲しがる」というSF展開が作られていくのだと考えられます。
アイちゃんが、Siriのようにキーワードから回答を選んで利用者に伝えるツールのように、あくまで高度なコミュニケーションプログラムとして不破にアドバイスしたのであれば別*4ですが、人間に近しい思考を持っていたとすれば、このまま友達の不破や他のヒューマギアのように自らの足で歩いてみたいと願わないか心配になりますよ(笑)
もし他のヒューマギアのように夢を持つ程度に自我を持ちながら肉体を持つ必要性を見出ださないとすれば、アイちゃんのプログラムには何らかのプログラム…すなわち“矯正”が行われたのでしょうね。
社長の理念を体現するため犠牲になったとあれば酷い話です。
逆に憧れるどころか人類を悪しき存在とし、絶滅してしまえば良いと考えるアークなら機能的にも人型の形態に決して囚われないというのは分かる発想でしょう。
つまり、本来、人型にこだわるべきは人型に育てられた或人や飛電製のヒューマギア達であって、人型に固執しないのはアークであるべきなんです。
それが真逆に向いているのがなんともちぐはぐな『ゼロワン』らしいというか。
「滅、お前はアークじゃない。お前はお前自身を取り戻せるはずだ!」
制作がとにかく持っていきたい流れは「悪いのは全てアークであって、ヒューマギアではない!」なんだと思います。
当たり前の話ですが、このまま「ヒューマギアは人類に必要なかったんだ」オチになるわけもなく、人型のヒューマギアであれ、非人型のヒューマギアであれ、世の中に再び溢れて大団円を迎えるためには滅亡迅雷.netの行いもアークのせいにさえ出来れば良いのです。
そのための抽象化、ゼツメライザーの延長!ベルトを介した憑依設定!!!
元々、アークに滅は狙われ漬け込まれただけ、個人の意思で人類を憎んだのはMCチェケラだけで(ノイズでしかないエピソード)、「迅も滅もテロリストやらされてね?」の疑問はありましたが、満を持して「ヒューマギアは悪くねえ!」を加速させる方にギアチェンジしたのだと思います。
アークは衛星からヒューマギアをマギア化させてきましたが、今回はさらにその強調のためにベルトとして滅と迅を母体としたと考えるとすんなりいきますもんね。
良いように言えば、全編は或人(善意)とアーク(悪意)のヒューマギアをお題の道具とした、使い方対決だったのかもしれません。*5
雑なファイズリスペクトを思い返せば、ラスボスの名が“アーク”であり、使用者をコロコロ変えるアークゼロドライバーは“呪いのベルト”の再現かもしれませんが*6。
つまり、アークゼロに課せられた狙いを総合すると、
・大森ライダーお馴染み()の悪の仮面ライダーをラスボスに出したい
・ヒューマギアの悪行は全部アークのせいにしたい
・「悪意しか学習できなかったお前は俺達には勝てない!」に持っていきたい
辺りなんじゃないかという、なんとも変わり映えのしない大森ライダー展開なのでした~。