ルナ太郎の腹筋崩壊ブログ

私は…仮面ライダーゼロワンの気になった所を大人げなく殴り書くのが仕事だから!

“ゆい”というヒューマギアを覚えていますか(仮面ライダーゼロワン批評)

なかなか文章を打つチャンスがなく、先週上げるつもりの記事が10話の放送後になってしまいましたm(__)m

 

 

さて。

クレジットに役名があるのに公式の人物紹介にもいない、相関図にもいない、役者本人すらも出演の告知していない(笑)、出番は一度きり。

或人が本編で最初に話すヒューマギアを覚えていますでしょうか。

もし、ゼロワンクイズなるものにこれを出題したら、パーフェクトを阻止できるかもしれません。

それはくすくすドリームランドの係員ヒューマギア。

遅刻で急いでいた際、すれ違い様に挨拶した子、“ゆい”です。

アップのカットもありました。

 

「ただのモブじゃん」で済む話なのですが、或人のヒューマギア観、もとい人間観について述べていく際にこの子について話をするので駄文を読み終えるまで頭の片隅に置いて頂ければと思います。

 

 

まず、私が思う或人の価値観について、作り手が意図して描いているもの、無意識で描いているものも合わせて述べていくので、「それはお宅の誇大妄想でしょ?」と思われても仕方ない箇所があるかと思いますが、ご容赦を。

私は、或人が言葉通り、ヒューマギアは人のサポートとして重要な役割を果たす道具だと考えていると思いますし、現状ではシンプルにサポートをするヒューマギアを善、危害を加えるヒューマギアを悪としていると思います。

 

第9話で語られた善に対する認識のキッカケは少年時代に身を挺して守ってくれたパパヒューマギアの存在を肯定するものであり、悪とする根拠は第1話の人の夢を笑ったマギアが人に危害を加えていたことから来ている、と考えるのが自然じゃないでしょうか。

善のキッカケに関するであろう記憶がまだ多く語られていないので推測していくしかないのですが、父親代わりがヒューマギアであることは自覚した上で命を懸けて爆発から庇う姿を或人は目の当たりにしましたよね。

その献身的に自分に尽くす姿にヒューマギアとしての高い意識を感じたのであれば、尽くす行為こそ肯定されるべき立ち振る舞いになるでしょうから、その姿勢が人間のサポートする姿勢へと変換され善としたのではないかと考えられます。

 

続いて悪、結果論的に考えていきます。

滅亡迅雷.netは或人から悪認定を受けましたね。

そんな悪の権化の迅や滅にキツい口調で自分の人の意識やヒューマギアの理念を語るシーンが過去にあったと思います。

あの口調が悪に対して向くとするのであれば、初めにあの説教をかまされた崩壊太郎は或人に最初に認識された悪のヒューマギアということになりますし、あの口調になったキッカケが人の夢を笑う行為であり、或人の中で善の裏返しである人間に尽くさない/協力的でない姿勢がそのまま悪へと直結していきますよね。

“協力的でない姿勢”とざっくりにくくりましたが、無論、驚異となる襲うことも含まれるでしょう。

 

つまり、或人はあくまで人間を立場が当然 上にあるものとして、ヒューマギアを見極めているということになります。

視聴者の間ではヒューマギアが人権を持つ「アンドロイド独立もの」を期待している人もいるようですが、キャラクターの中で或人はヒューマギアに強い信頼があるものの、だからと言って人間とヒューマギアを同等には扱っておらず、あくまで使用人的な眼差しなりに愛情深く接していると私は考えます。

第6話の声優回で、娘の代わりとして似せたヒューマギアを扱う多澤に、或人は自身のパパヒューマギアの話をし、ヒューマギアに代わりを求めてしまうことに理解を示しました。

先ほどの通り、パパヒューマギアは或人のヒューマギアの価値観の骨幹であり、善の象徴です。

それと娘の代役のセイネを重ねたということはマギア化する前のセイネは娘をラーニングし人間のサポートをする善の存在としていると言えますよね。

(そのセイネはマギア化し人に危害を加える悪となるのですが、相手はバルキリーへとシフトするので、或人の善悪の落ち着けどころが語られないのがモヤモヤしますが、それを避けたのは尺の短縮のせいか、後に語る予定で先延ばしたのか分かりません)

 

ゼロワンでは人工知能特別法という法律の8条に

本人の許可がない場合、実在する人物と同じ容姿のヒューマギアを製造してはならない

という項目があります。

その法に触れぬよう、セイネについては娘と同じ容姿にせず、外見をAIスピーカーで止めることで妥協案を見つけましたが、或人はこの法を理解した後でも、同じ容姿を用意することで元いた存在をヒューマギアで穴埋めることに肯定的な考え方は変えていません。

それが垣間見えるのは早くもなんと次の回、第7話のコービーです。

或人の中で「人>ヒューマギア」という思想なのは述べましたが、自我に目覚めていると知ったコービーと同じ容姿でもう一度造ることを選んでしまう辺りが法で定められた理由を倫理的側面から理解していないと言えるのではないでしょうか。

あの瞬間の記憶のないヒューマギアならば、似せた所で別のヒューマギアです。

つまり、亡くなった娘とセイネと同じ関係なのです。

 

窃盗罪はただ「悪いことだから盗んではいけない」と定めた方ではなく、それにより不利益を被る立場を生まないために作られた側面もあるのは当然の話ですよね。

人工知能特別法の8条に「本人の許可がない場合」とあるのは、当たり前ですが本人の意思が尊重されていない場合を想定してのこと。

意思を示すがものが遺されていないのですから、6話で言えば多澤の娘が生前に「ヒューマギアに私を似せてでも父を慰め続けてあげて欲しい」と希望していなかった可能性を考慮しての法となるわけです。

では、亡きコービーは前の記憶がないままに再生産されてでもバスケ部の勝利を見届けたい意志表示があったのでしょうか?

あの初期化され、ドリブルもままならない、バックアップが取れていたとは言い難い*1新しいコービーはおそらく或人やバスケ部…つまり人間のエゴで造られ配備されたものですよね?

「いやいや、ヒューマギアの人権や倫理なんて法で定められてないし、コービーの意思なんてどうでもいいことでしょう」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この判断こそが或人から読み取れる思想そのもの、ヒューマギアは人権を与えられるべき存在ではなくあくまで支える道具としていると言える証拠なのです。

 

 

話を戻しまして、くすくすランドの係員ヒューマギア ゆいの話。

或人は急ぎながらも彼女に「ゆいさん、おはよう」と挨拶をしていました。

放送当時、私はこのシーンで、或人が他者よりもそれぞれのヒューマギアを個と認識し、人間視しているいう描写での説明と感じたのですが、ゼロワンを見続けていても、ご存じの通り、これ以降、ゆいの姿が映ることはおろか、名前すら挙がることはありませんでした。

くすくすランドでこの後、あんな悲劇が起きたのにですよ?

少なくとも自身の居場所を追いやり、マギア化の条件も分からずに目の前で遊園地を壊され、人の夢さえも笑ったあの腹筋崩壊太郎よりも好意的な存在だったはずなのに、です。

 

或人は崩壊太郎がマギア化し、止めに入った係員ヒューマギアを戦闘員にする様を目撃しました。

或人が愛情を持ってヒューマギアに接しているのであれば、心配になるのは名前を知っている係員ヒューマギア達、そこに ゆい が含まれていると思うのは普通の発想でしょう。

なんとも後味の悪い話なのですが、この後、ゆい がどうなったかは分かりません。

エイムズが撃ち倒したのか、それともゼロワンがカバン剣で斬り刻んだのか…。

逆に第2話のマモルは倒すことには躊躇しましたので、違和感が生じますが、これらの描写から判断するとなると、或人の中で「マモル>崩壊太郎≧ゆい」という認識になってしまいます。

白衣の天使まひろちゃん*2も自我が芽生えていることに気付いたものの、滅亡迅雷.netに接続し、或人の考えに大爆笑しながらマギア化し、結局誰が倒したかも分からずに、悪に堕ちたような認識のまま9話が幕を閉じました。

となると、もう或人の中で腕にバンダナさえ巻かなければ大して大事な存在でもないというアベコベな解釈しかできません。

もう、主人公でありながら物語の1/4にも満たない段階でひっそりとキャラ崩壊が起きています。

(第3話のニギローは自我に目覚めていたかも気付けていない/分からないので割愛しました)

 

いかに或人がヒューマギアを新しい種族としてではなくモノとして認識いるか、その中でも勝手に善と悪に線引きして個々の是非を決めているか、個として各々を認識するも平等に愛していないかが分かって頂けたのかと思います。

大人の事情的な観点で言えば、ゆいに限らずヒューマギアのドラマが尺の都合で納まらなかったり、没になる描写があったりするが故に起きた説明不足なのかもしれませんが、そんなことよりも毎話或人のギャグシーンという名のイズとの絆描写は固執してどうしても時間を割きたいわけですから、制作に情状酌量の余地があるとは言えないのかなと思ってしまいます。

もし「ニチアサの主人公なのだから上手く描写できていなくても好意的に解釈してほしい」なんて言い分があるのだとしたら、それは完全に制作サイドの甘えですよね。

 

 

唐突ですが私には子供がおり、NHK教育の「おかあさんといっしょ」を一緒に見ていたりしているんですが、その番組の幕間のきぐるみ劇「ガラピコぷ~」というお芝居があり、ガラピコという惑星探査用ロボットが出てきます。

https://www.sukusuku.com/contents/wp-content/uploads/2016/01/ss_garapoko_garapoko.jpg

ガラピコ

おしゃべりな探査ロボット

しずく星とは別の惑星で作られた、惑星探査用のロボット。
調査活動中にチョロミーたちの星に不時着。今まで収集したデータのほとんどが消失してしまった。「覚えました!」といいながらデータを記録するのが好き。他人の気持ちがさっぱり理解できず、ズレた発言や行動をする。多弁早口で自分で作ったルールを人に押しつけるのが好き。ヒートアップすると臭いガスを出す。

 

“他人の気持ちがさっぱり理解できず”とありますが、考えを理解しようとする素振りはありますし、「元の惑星に帰りたい」という願いを持っていて、ガッチガチのただ喋るAIという感じではなく、ゼロワンで言えば自我を感じさせるキャラクターです。

このガラピコをチョロミー(主要キャラ)たちはロボットだからとモノ扱いしませんし、むしろ、仲間や友達と言ったように見ています。

こういった感じで「ガラピコぷ~」に限らず、人工知能を持ち合わせ、文字通り機械的に喋るキャラクターは子供向け番組に沢山存在しますが、見ている子供たちに、モノではなく生きているキャラクターとして普遍的に愛されているような気がします。

となれば、ゼロワンのキャラクター、もっと言えば飛電インテリジェンスの或人社長より、人間の外観をしなくとも、子供たちはアンドロイド(ヒューマギア)をしっかりと愛しているのではないでしょうか。

逆に、その手の子供向け番組から離れていっても我々大人達は沢山のSF作品に触れ、自我を持つアンドロイドのドラマにも触れ、多少なりとも人間に向ける近い眼差しでヒューマギアを見れる柔軟な視野も既に持ち合わせてしまっています

 

古い考えかもしれませんが、日本には「物には魂が宿る」という概念があります。

宿るのが魂(生命)ではなく、神とする風習や宗教もあるかと思いますが、それらの思想が発展し、サブカルでは擬人化ものが流行り、物を大事にすることで現れるキャラクターと楽しく過ごすアニメも存在しているのです。

或人のようにヒューマギアをモノのように扱うことになっても、視聴者の中で無機物以上の眼差しが生まれてしまうのは日本人としてポピュラーな発想で、それなのにも関わらず、止むを得ず壊そうとする流れにはモヤモヤしてしまうんだと思います。

本来であれば、壊さずになんとかしようと画策する…大事にしようとするのが視聴者的発想なのに、それを初めて行ったのは作品の中で最もヒューマギアに信頼を寄せている或人ではなく、最近どうしようもないキャラに仕立てられそうな刃というのも問題になってしまいますし(第7話 暗殺ちゃんの凍結捕獲)。

 

子供はアンドロイドを愛し、大人はアンドロイドの自我に理解を示し、日本には物を大切に扱う文化がある以上、その中で或人と同じ目線で「人間のための夢のマシン」と割り切り、金属の塊の割には愛着を持つ姿勢に共感できる視聴者は少ない問題がずっと付きまとってしまうんですね。

制作はこの問題に気づかず、ゼロワンを作っているのでしょうか。

いったい或人は ゆいにどういう視線を向けていたんでしょうね。

 

 

「ゆいさん、おはよう!」


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「おはようございます」

*1:第3話で言ってた「バックアップがあるから壊しても大丈夫」って話はどこいったの

*2:はぁ…