ルナ太郎の腹筋崩壊ブログ

私は…仮面ライダーゼロワンの気になった所を大人げなく殴り書くのが仕事だから!

リアルなAI事情は誰のため?(仮面ライダーゼロワン第17話「ワタシこそが社長で仮面ライダー」感想)

どうも。

あまりにも文が進まず、寝落ちしてしまい、放送日の早朝更新になってしまいました…。

今年も引き続き、ゼロワンの最新話を見ても、何が面白いのかつまらないのか分からなくなるところまで心が梛木のようなルナ太郎です。

よろしくお願いします。

 

 

色々と突っ込めそうなところがありそうな本編でしたが、今回はネットで話題になっていた「性能で対決するなら、なぜその道のプロではなく一般人にザイアスペックを付けさせて華道対決をしなかったのか?」について考えていきたいと思います。

 

 

ZAIAエンタープライズジャパンが飛電インテリジェンスの買収に乗り出した。寝耳に水の状態の或人に対して、ZAIAの社長・垓はさらに驚きの提案をする。ZAIAが販売している人工知能と同等の思考能力を人間に与える次世代インターフェース「ザイアスペック」を使用した人間と、飛電のヒューマギア。一体どちらが優れているかを競おうというのだ。こうして“お仕事5番勝負”が始まる。飛電が勝てば買収を取り下げるという垓。果たして勝負の行方は―――?

www.kamen-rider-official.com

 

 

私なりの見解として、制作にはおそらく、

 

「善意と悪意でAIの結果が変わる」

「ヒューマギアと実現しうるAIデバイスの対決」

 

この2点をどうしてもやりたいのだと感じました。

飛電のAIによる独立した自動ロボット“ヒューマギア”とZAIAのAIがサポートするデバイスの“ザイアスペック”はAIを使っているものの、マシンとしての用途が違います。

両者別々のマシン対決にこだわるのであれば、生け花対決においてザイアスペックを付けた華道家に宛がわせるのは華道のプロとして作られたヒューマギアであるべき、もしくは花屋の人間にザイアスペックを付けてサクヨと対決させるべきだったのでしょう。

もっと言えば、そもそも対決なんぞさせずに住み分けて活用すべき2つのマシンであるというのはごもっともだと思います。

しかし、それでは制作の狙っている善と悪の対立構造が作りにくいのです。

 

 

善意と悪意でAIの結果が変わる

今作のAI論は人間の扱い方、すなわち刃風に言えば「使い手次第」というメッセージを入れたいがために、第2幕のZAIA編では表面的な勝敗からザイアスペック使用者の改心へと物語を動かそうとしているんでしょう。

引用探すの面倒なので抜粋は省きますが(おい)、この善意だ悪意だというのは物語中でも語られますし、スタッフのコラムやらインタビューやらでも記されたものでした。

現にゼロワンの第1幕 滅亡迅雷.net編では、ヒューマギアを扱う或人と滅亡迅雷.netの家族としての扱いで違いを見せて、善意と悪意の結果の差を示していましたよね。

或人が選んだヒューマギアを善とした時、対となるザイアスペックを使う人間を用意しなければなりません。

「悪意のある人間」の分かりやすい直接的な表現の肩書きをつけるなら、例えば“犯罪者”辺りでしょうか。

しかし、そんなあからさまな悪人にザイアスペックを付けて会社の権利を賭けて戦わせる方がワケ分からないので、なんとなく華道家と花屋という花を扱うもっともらしい共通点程度でこの対決カードを並べるしかなかったという苦しいところなのかと思います。

今回は、感じの悪い、何か裏のありそうな華道家(presented by天津垓)を悪意として配置することで、或人傘下のヒューマギアを善意とする対立構造を作ることにしたかったのではないでしょうか。

それが制作が考え抜いた第2幕の大まかな構成なのだと感じました。

 

 

 

ヒューマギアと実現しうるAIデバイスの対決

飛電とZAIAの対決で善意や悪意を織り混ぜつつAIで戦わせるのならば、ZAIAはメガネ型のデバイスなどにせず、ヒューマギアとは別タイプのアンドロイドを開発し、似た者同士の対決させるということにすれば説得力のある構図になるかと思います。

しかし実際のヒューマギア自体は現状から見ても外見も人間、動きも人間、あらゆる職業をわずかな時間でラーニングし、シンギュラリティに差し掛かれば自我さえ芽生えるという、現代の科学技術では未だオーバーテクノロジーの産物なのです。

そんな創作物で散見するロマンの塊のような存在をバージョン違いで2種類用意して戦わせるよりも、ヒューマギア(人間に酷似したアンドロイド)以上に近しい未来に実現しうるAIを用いたアイテムを出すことで、より我々のリアルに近づけようとしているのではないでしょうか。

 

度々、SNSでゼロワンはAIを専攻している方に絶賛されていますよね。

この自ら学習し動くアンドロイドと人間をアシストするAIデバイスの対決、AIを専攻している人にとっては面白いシチュエーションなんだと思います。

(心を持ち合わせているかもしれないヒューマギアを壊しすくせにバックアップから復元して良い話風に終わらせてしまうことに嫌悪感を覚えてしまう)私のような人間には感じにくいところではあるのですが、おそらく他の創作物としての展開のしやすさよりもゼロワンはAIの実情、起こりうる事態を優先して描いているように見受けられました。

でなければわざわざAIの監修を入れたことを作品の売りにしないと思いますし、声優回で父が亡き娘に似たヒューマギアを造ってしまうことが倫理的にどうなのかをAIの監修に意見を仰いだりしないと思うのです。

 

しかし、制作がやりたい展開に現実のリアルな技術が上手く作用しないことはありうることではないのでしょうか。

世の中では昨年末に紅白の美空ひばりAIを見て「ゼロワンにあった似せてはイケないという法の存在意義に納得した」というツイートを見かけました。

そのご意見通り、様々な学問上からも実在する人に似せるロボットを作ることは法律上で罰せられるという未来への説得力は“AI美空ひばり”というリアルを体感して考えさせられましたし、それをゼロワンは先に見せていたというところで鼻が高くなる特撮好きもいるかもしれません。

とはいえ、馬鹿正直に「人に似せたアンドロイドを作ることを違法」として突き詰めて世界観を考えるのならば、そもそも飛電は顔カスタムなんて違法者を出しかねないサービス自体を廃止すべきだという話です。

良い話風にするにも許可なく外見を似せるのは違法である以上、声色と言動だけ模したAIスピーカーを作るというグレーゾーンに会社の代表自ら踏み込ませざるをえなかったという、お話を広げられない縛りを設けてしまいました。

AIに関するリアルな法と制作がやりたいドラマがぶつかった結果、声優回は後味の悪いオチに成り果てたのです。

 

なぜか分からないけど、当然のようにAIには自我が生まれ、人間のようになりたいと思っていて、むしろ、アンドロイドと人間の違いが皮を剥いたら無機物か否かぐらいで…そういったアンドロイドものの定型文化した設定描写はAIを専攻している方にとって現在の科学技術と乖離してしまい、違和感や不快感を与えるのだと思います。

「AIによる自我の芽生え」は作り手にとって手を出したい“旨味のあるお約束展開”ではあるものの、そのプロセスにもっともらしい科学的に根拠、今回で言えばシンギュラリティのような理屈がなければ、その都合よいオーバーテクノロジーの塊は科学的に見て金属の身を纏った新生物になってしまうんですよね。

だからこそ、生物学ではないAIを専攻されている方には、しっかりと監修を受け、それを間引かず反映しているゼロワンが面白いんじゃないでしょうか。

これがゼロワン印…「©️ゼロワン」になっているのです。

物語の胸くその悪さが逆鱗に触れことはなく、実在しうる技術、想定される法律で事が進むことが琴線に触れるのであれば、このゼロワンという作品は絶賛に値するのかもしれません。

 

実際の技術で考えるとAI知識のない我々には難しい話ですが、例えば、ハリウッド映画の日本描写あるあるで考えてみます。

ハリウッド映画で日本が舞台になることは多々ありますが、街並みには漢字で書かれたネオン看板が低い位置にあったり、ビルと瓦屋根が融合していたりと、中国文化を彷彿とさせる景観になっていることに憤りを覚えることが頻繁にありますよね。

前回ターミネーターの話をしたばかりで恐縮なのですが、アベンジャーズシリーズも好きで、私が最新作のエンドゲームを鑑賞した際に中国っぽい「こんな風景、日本にないよ!」なシーンがあってガッカリしました(エイジ・オブ・ウルトロンでの韓国はフツーだっただけに)。

しかし、世界的にはあのよく見る中華風な日本が“日本っぽい”のでしょう。

あの建物が立ち並ぶ国ならヤ○ザが刀をブンブン振り回してそうですし、見る側には日本国内を除けばウケも良いのだと思います(笑)

このように現状を把握しているものが、ドラマや映画、漫画などで誇張されたり、古臭く描かれているのを嫌うことって私たちにもあると思うんですよね。

 

繰り返しになりますが、お話の矛盾や歪みなどを回避したいという物語のご都合で事実を捻じ曲げない、その馬鹿正直に取り組む姿勢が「他の作品には無いリアル」だとAI専攻者にはウケていると考えられるわけです。

例に挙げた日本が舞台のハリウッド映画でいえば、背景がちゃんと日本らしい雑多なビル群を描いていてたらオールオッケーとされるのか、それとも道端で刀を振り回すヤ○ザのアクションシーンや誇張された大和魂()を持つキャラクターのドラマが優先されるべきなのか、それらの見方をライダーシリーズに置き換えれば様々な人のゼロワンの感想に繋がっていくのだと思います。

その着眼点の違いから、最近、Twitterで話題だった「AIの設定が今時でない『半沢直樹』のスペシャルドラマ」や「銃の取り扱いがおかしいキムタク主演のドラマ」がゼロワンよりも劣った子供騙しだと評価する人を生んだと考えると合点がいきますよね。

人間模様は二の次、といった考え方ならば理解はできます。

しかしながら、

 

「善意と悪意でAIの結果が変わる」

「実現しうるAI技術」

 

この2本柱の相乗効果がゼロワンを面白くさせると私には到底思えません。

先程も述べた通り、「制作がやりたい展開と現実の技術は上手く作用しないことはありうる」をゼロワンは体現している最中に見えるからです。

腹筋崩壊太郎ロスの誤差よりも、気づくべき大きな誤差…その誤算に制作は気づけているのでしょうか。

善意と悪意、接し方で変わるのはAIに限らず、人間だって、もっと大きく言えば何事もそうだと思うんですが、わざわざAIを介して子供に示す意味ってなんですかね?

 

そんな道具は使い手次第なんて話、ドラえもんにでも任せれば良くないですかね?

ヒューマギアとザイアスペックの対決を見て、何かの肥やしに、明日の糧になるのでしょうか?