仮面ライダーゼロワン 第7話「ワタシは熱血ヒューマギア先生」(素材を活かさない演出)
ある中学校に呼び出された或人。なんでも教師でバスケットボール部の顧問のヒューマギアをリセットして欲しいのだという。或人が向かった先の中学校には、何故かA.I.M.S.(エイムズ)の姿も。どうやらAIなのに“熱血教師”になってしまったというヒューマギアが問題視されているようで―――。
第5話や第6話に比べて概ね まとまってるように見えた第7話。
それは、同じ脚本家が執筆した前2話に比べ、親しみのある職業*1についてであり、馴染みのある廃部をかけたスポーツ学園ものであることが手伝ったのが要因だと考えています。
その視聴者が補完しやすい定番性に甘え、最後の或人の言葉と完全初期化されドリブルの知識さえなくなったNEWコービー*2とのマッチングの悪さに演出における足りない面があったのは事実と言っていいでしょう。
前回記事で指摘したスラダンの台詞のコピペ以外で酷いと思ったコービー周りの演出、内容で思うところがあったので、記事を分けて追記していきます。
まず、コービーの自我の目覚めを悪い方に描写した点から。
安西先生のコピペで急にコービーがですます調になって、より 借りてきた言葉感を出したのも勿論酷い点なのですが*3、その際におどろおどろしいBGMをかけて、コービーが訴えた自我の芽生えによる勝利への夢が異常な執着と言わせんばかりに狂気として見せるんですよね。
そこまでコービーは恐ろしいことを話していたのでしょうか。
なぜ…?なぜ…私はここにいる?
私は…私はバスケ部が初めて勝つところを見届けたい。だからここにいる。
私の先生は…みんなだ。
ちゃんと良いことを言ってませんか?
文字面だけで捉えたら、サブ脚本の中ではヒューマギアの自我について凄くポジティブな面から語っているんですよね。
自身の存在意義が裕太の1つの夢である「バスケの試合で勝ちたい(勝たせてあげたい)」としっかり重なっています。
これこそ或人の掲げる“夢のマシーン、ヒューマギア”じゃないですか。
しかし、その好意的なシーンを不穏なBGMが打ち消しまいます。
是非、録画が残ってる人はこの台詞のシーンを見てみてください。
「私の先生は…みんなだ」という頂点に向かって、雲行きの怪しいBGMが流されるのです。
この良い方向に取れるコービーの覚醒をBGMで台無しにしてしまう意図が制作にあるとすれば、後に怪人化が控えていることが関係していると私は考えます。
ゼロワン第1話で起きた現象ですが、腹筋崩壊太郎はゼツメライザーを強制的に付けられるも多少“人類滅亡”に対して抗いを見せた程度にも関わらず、放送後に崩壊太郎へ多くの同情の声が挙がりました。
そうやって無理矢理に怪人にさせられ、壊されゆく悲哀で生じる「可哀想」という視聴者の反響を緩和するために、恐ろしげな演出で怪人化に対して不条理ではないことを示そうと、自我の目覚めは恐ろしいことと印象付け、壊さざるを得ないという正当性を持たせようとしているんではなかろうかと。
その正当性のために、せっかくヒューマギアに付与された良い話は一度濁してしまうんです。
ゼロワンが始まって早々、私の中で危惧としてあったことなのですが、大筋の構成の段階でマギア化の設定が上手く噛み合っておらず、よく言えばテンポの良さ、悪く言えば勢いで誤魔化してしまうという根っこの問題が解消されないまま、負の演出を盛って乗り切る形でここまで来たということになります。
この怪人化に正当性を持たせる演出で言えば、BGMではなく、演技でヒューマギアの自我に対してホラーテイストにした演出は第6話でトラブルで娘のすみれになりきったセイネのシーンもありましたね。
監督の差はあれど、どうにも自我に目覚めるヒューマギアをおどろおどろしく見せて、ライダーに壊されるまでに同情を買いにくくする方向に進めてるような気がします。
そうして同情を薄め、破壊され、初期化された後でようやく良い話に戻すことで「可哀想」という印象から遠ざけようとしています。
しかし、この強制的な見方の誘導が毎回オチで挙がる視聴者の「それで良かったのか?」という疑問符へと繋げてしまうのはこのブログを読んでいる方にも体感済みの感覚かと思います。
この不穏BGM演出、今回は刃のマンモスキー入手時にも使われました。
手に入れるだけではエイムズとして当然の行動のように思いますが、今後の展開に向け、どうにか音楽で視聴者の印象を誘導して多角的な見方を潰しているように見えましたね。
逆に自我が垣間見えない暗殺ちゃんが同情を買われることがありませんから、キャラ付けのためにもひたすらコミカルに暗殺*4を試みる画作りに徹していました。
次に挙げるコービー周りのよろしくなかった点は、自我の目覚めと未成年の自意識の関係描写の薄さです。
自我に目覚めたコービーは、チームを試合に勝たせられず、辞めようとする部員を目の当たりにして「この状況はなんだ」と自身の存在意義について自問自答しました。
私は経験がないので断言はできないのですが、これって稀に聞く悩める学生諸君が陥りがちな自身の存在意義「俺はなんのために存在するんだ?」という葛藤に似ていませんか?
学校内カーストや部活動の問題、友達付き合い、受験などでアイデンティティーを失い、まるで自分が何者か分からないまま孤独に感ると言われるような その現象に近い感じ。
多くは語られなかった受験組のバスケ部員や裕太が結局バスケ部を辞めなかった理由に、「どうしても一勝したい」、「破壊されてしまったコービーの無念を晴らしたい」以外にも、「コービーが自問自答したような“自分がここにいる意味とは何か”に対する答えとして勝利を味わいたい」があってもおかしくないですよね。
むしろ、それはちゃんと組み込んだ方が良い、アンドロイドの自我の目覚めを学園もので取り上げるからこそ斬り込める唯一の角度のテーマ性であって、今までの中ではヒューマギアの設定において最高に相性の良い職業だったと思うんですよ。
近未来アンドロイド×青春ドラマ、新しげな金脈がしっかりあったじゃないですか!
…結果はご存じの通り、そのせっかくの機会を同情を誘わないようにと不穏なBGMと安西先生のコピペで叩き潰してしまったんですよね。
それどころかコービーが「私の先生は…みんなだ」という境地に達しても、カメラはその語りかけに耳を傾ける生徒の顔を誰1人と抜かないという体たらく。
ゼロワンの良心的存在イズの避難誘導描写を丁寧に割くことがオチに向かう生徒たちの感情よりも大事なことですか?
いずれ来そうなイズの危機のために視聴者に親しみを持たせ盛り上げるための前振りなんて、もう十分やってるでしょう?
ちゃんと大事な時には生徒の顔を映しましょうよ。
1話という短い尺しか設けられないから仕方ないといえばそれまでですが、省略されたであろうコービーの自我の目覚めのキッカケを描かなくては、オチの初期化コービーと共にもう一度勝利を目指す感動の振り幅が小さいままなんですよね。
裕太の思いは或人との会話だけで済ませてしまったことが悔やまれます。
腹筋崩壊太郎が会場の歓声を思い出し、笑みを浮かべたように、コービー自身の回想“過去の映像データの閲覧”として自分に勝ちたい気持ちを訴えた裕太の姿の見せる方がよっぽど必要なシーンですよ。
前述したコービーに同情させないための構成にしても、その手の視聴者の同情に逃げ腰になってBGMで印象操作したり、漫画のパロディというおふざけに走って誤魔化すぐらいなら最初っからこんなプロットにするんじゃねえ!と言いたいです。
諦めたらそこで試合終了ですよ、スタッフさん!