ルナ太郎の腹筋崩壊ブログ

私は…仮面ライダーゼロワンの気になった所を大人げなく殴り書くのが仕事だから!

『刑事ギリィ』どうでもよすぎ問題(仮面ライダーゼロワン第10話「オレは俳優、大和田伸也」)

 

 

病院でのヒューマギアの暴走の一件でイメージが落ちてしまった飛電インテリジェンス。その汚名を返上するべく、新しいドラマプロジェクトを立ち上げる。俳優ヒューマギアを主演にすえて、イメージアップを図ろうというエグゼクティブプロデューサーこと副社長・福添の発案だ。主演を支えるのは大御所俳優である大和田伸也。「最高。絶対に台詞を忘れない!」と、ヒューマギアを表面的には認める大和田だが、果して、人工知能とのお芝居合戦は上手くいくのだろうか―――?

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「刑事ギリィ」どうでもよすぎ問題

第10話の感想を述べていくにあたり、ラストシーンの話から触れていきます。

今回2度目となる1エピソード/2話という構成で、前半の引きが「大御所俳優が降板した」というところで終わりましたよね。

前半の引きが次回後半への視聴意欲に繋がる大事な部分にもかかわらず、このエピソードにおいてはどうでもいい部分で引き伸ばされたと感じたのですが、皆さんはいかがだったでしょうか。

前のエピソード、病院回の引き付けはホロビに激しめにやられたバルカンの安否に比べるとどうにも引きが弱すぎますよね。

 

【飛電社の行く末がどうでもいい】

まず、重要な飛電社に立ち込める暗雲、ここまで来ると、もうどうでもいいです(笑)

前々回の記事「飛電って株式会社なの?」で述べた通り、飛電社の経営に関して常識的な観点で捉えていた視聴者は第1話終わりから心配していましたし、デイブレイクタウンの真相が明らかになっても滅亡迅雷.netへのヘイトが溜まるだけの世論辺りから、こちらが気にするだけ無駄だなと思わせてもおかしくないです。

前回、ようやく病院の襲撃によりゼロワン内での世論の矛先が飛電に向きました。

視聴者はあまりにも現実とかけ離れた価値観を持っているこの“異世界ゼロワン”はファンタジー世界であり、リアルにそこまで投影することはしづらく、普通の現代風の創作物よりも「そちらの地球でよろしくやっててくれ」というフィクション耐性の目盛りを強にして見ていると思います。

(俳優本人としてのゲストを投入されたところで変なメタフィクションが発生させましたし)

そんな異世界の、お芝居による名誉回復のアイデアなんて、非現実的である上に、何の狙いがあっての実質2人芝居のサスペンスものかも分からないので、こちらとしてはそちらでどんどん勝手にやってくれ状態に拍車がかかります。

何をすれば世の中に批判を受けるかが分からない世界ということは、何をすれば汚名返上するかも分かるわけがありませんから、こちらとしては ただただ思考停止してハラハラすることなく傍観しているだけしかないのです。

 

【撮影がどうでもいい】

撮影シーンもイズのジェスチャーコントで茶化して盛り上げてしまうのであれば、その反動で、撮影そのものはごっこ化してしまい、大目的の会社を潰さないためという緊迫感が大して伝わってきません。

例えば、どこかの局のゴールデンタイムに会社員の恋を描いたドラマがあったとしましょう。

そのドラマはサラリーマンの主人公と同僚との恋が本筋だとしても、途中、同僚との共同のプロジェクトや昇進をかけた自社製品の売り込みのシーンなどで主人公が考える企画が真面目に取り組む姿勢が見えないと、その主人公から出来る社会人感が伝わらず、逆に視聴者に「同僚の子のお相手はふざけた彼で本当に良いのか?こんな会社に勤めていて良いのか?」と思わせかねませんよね。

つまり、社運をかけた企画に真面目に取り組む姿勢こそ、飛電社の行方が危ういという大筋をしっかり浮き上がらせてくれる効果があるのです。

それに、大御所俳優の起用とヒューマギアのラーニングに労力を割いてしまったがために、エキストラが用意できず、やむを得ないとはいえ、鑑識役と遺体役は社長と副社長にカメオ出演してもらうなんて、客観的に見たらただの社内の道楽、それこそ文化祭の出し物映像のノリですよ。

死体役なんて、ヘッドギアを合成で消せるなら、それこそ整備不良のヒューマギアでも寝かせとけば務まる話じゃないですか?

とにかくまずコント仕立てでこちらの心を掴もうとしているのが、結果的に、より会社の危機感から遠ざける原因になってしまうのは間違いないです。

ふざけたシチュエーションであっても真面目に撮るお話では、最近だとルパパトの性別入れ替え回が記憶に新しいですが、あれって撮影の成功はしようがしまいが大筋と関係なく成立する程度のものであって、ストーリー上の重要な要素である飛電社の経営不振を絡めるのであれば「イズのジェスチャーってアドリブなんだって~。かわいいね~」なんて感想を狙いにしないで、緊張感を持って大真面目に取り組むべきです。

それに或人に鑑識ごっこやらせるぐらいなら、エイムズと共闘するなりして撮影所に現れた迅の首を討ち獲った方が飛電社にも、エイムズにも、何よりマギア化したヒューマギアに脅かされている一般市民にメリットがあるじゃないですか。

それこそ飛電の汚名返上となりえますよ。

 

【引っ張り方がどうでもいい】

飛電社に緊迫感がない以上、引き付けるために『刑事ギリィ』の撮影危機を打ち出したところでぬかに釘です。

第10話の最後は今まで顔を隠されてもさほど気にもならなかった謎の男が「ザイア」という単語とともに結局よく顔も見えないまま「このドラマは1000%失敗する」と言い放って終わりました。

「で、お前は誰?」という謎が元の一大事の上に1000%上塗りされてしまい、余計に飛電制作のドラマの成功するかどうかなんて、霞んでしまうのです。

わざわざ謎の男にドラマ撮影と飛電社のドラマを絡め、ドラマ撮影の危機を来週に繋げようとしたにもかかわらず、ですよ(笑)

どうせなら、引き付けポイントは構成を入れ替え、親しくなった暗殺ちゃんが最終的に師匠である大御所俳優を殺してしまうのか、辺りで引っ張ってくれれば、『刑事ギリィ』よりは多くの視聴者の心を掴んだまま次週に繋げられたと思うんですよねぇ…。

 

【いきさつからどうでもいい】

以前からのことですが、ゼロワンは本編の尺稼ぎのためか、エピソードの導入を発端から見せず、省略して後の説明台詞で済ましてばかりいます。

今回も「なぜ副社長がサスペンスものを選んで撮影に踏み切ったか」という状況を始まりから見せることはなく、会見時の説明でこちらは無理矢理に事情を飲み込まされました。

リアタイで時間キッカリに見ていてもゼロワンのお話にキャラと一緒に物語のジェットコースターに乗り込むことが許されず、毎回なぜかこちらが遅刻しているような温度差がある状態で物語に入っていくしかないという乱暴な構成が続いたのです。

このショートカット技、毎回、多用して良い脚本術ではないと思います。

こうして、いまいちキャラクターと同じテンションでゼロワンの話に入っていけない作りなのも『刑事ギリィ』そのものをどうでも良くさせる要因の1つなのです。

 

【ドラマの内容がどうでもいい】

1エピソード2話構成は病院回から続いて今回が2回目ですが、『パヒューマン剣』回という括り方で見ると、第5話と第6話がゼロワン初の1エピソード2話構成と言えますね。

そういえば、その『パヒューマン剣』に力を入れていた、中途採用組で未来の特撮を背負って立つAPさんたちは今回、何をしているのでしょう。

同じように2話構成の中で地続きとなるゼロワン世界でのオリジナル作品なんて、自分の手腕を発揮する絶好のアピールの機会じゃないですか。

公式サイトのコラムでは殺し屋の銃はコルトパイソンだのなんだのと述べていますが、前職の畑が活用できた『パフューマン剣』に比べて、『刑事ギリィ』の作り込みはテキトーすぎません?

『パフューマン剣』のためにイラストレーターを呼んで漫画を書かせたりしたあの情熱は今回が実写の作品なので前職の2次元周りのコネも使えないからと燃えることもないのでしょうか?

飛電社なんてどうなってもいい、撮影風景がふざけててシラケる、引っ張りが下手すぎる、事のいきさつなんてどうでもいい…なら、企画されたドラマの内容で視聴者に興味を持たせる以外ないじゃないですか!

なんならゼロワンの位置づけとして『パヒューマン剣』よりも飛電にとってはずっと大事な作品ですよ、『刑事ギリィ』!!

 

このように、見ている側にとって飛電社のイメージアップドラマ『刑事ギリィ』をどうでもよくなってしまう多重構造*1にしてしまい、これで飛電社を盛り返そうとする話の構成そのものが間違っていると言って過言ではないと思います。

殺ちゃんが全然ひっそりと誰も仕留めないのに"暗殺"を名乗ってるのは、この大御所役者投入を見越し、ドラマ作品上での殺し屋家業からの弟子入りまでを想定してのことだとしたら、繰り返しになりますが、『刑事ギリィ』なんぞを主軸に置かずに、暗殺ちゃんと大御所俳優の師弟関係にもっと焦点を置いた方がまだまともに繋げられたのでしょうかね*2

https://pbs.twimg.com/media/EI61475UcAEe3Vi?format=jpg&name=large

 


 

大和田氏をフィーチャーしすぎて台無しになったこと

今回、大和田伸也氏をご本人役で出演させるに辺り、大御所俳優を俳優として立てすぎたことで今まで積み上げてきたメッセージ性やストーリー上の構図が崩されてしまったのでそちらも言及していきたいと思います。

 

【「AIに負けないぞという気持ち」】

ゼロワンのプロデューサー大森氏は、ゼロワン放送直前のティザーサイトにて、この作品で子供たちにこのようなメッセージを送り、将来の夢への意欲を育みたいと述べていました(ティザーの文章が残っていないため正確な引用ではありません、すみません)。

第1~9話まで、ゼロワンでは飛電社製のヒューマギアを何らかの形で人間以上の力を発揮することで"AIの仕事場を奪いかねない存在"として描いて来たと思います。

向き不向きの話で言うと、第1話で「人工知能に人間のお笑いは理解できない」と皮肉りつつも腹筋崩壊太郎はちゃんと進出してきましたし、精神論で言えば、第6話の漫画回で「情熱がなければ勤勉さに負ける」とヒューマギアになんでも任せてしまう漫画家に喝を入れました。

こうやって毎回ヒューマギアの優位性はなんらかの形で提示され、時に人間の手本となり、時にAIに依存しすぎない形で人間らしく努力すべき在り方を示してきました。

この流れでいけば、本物の俳優に引けを取らない松田エンジ…という展開だったはずです。

にもかかわらず、今回の松本エンジ(AI)はハリウッドで演技をラーニングしても向き不向きの壁を越えられず、人間の精神論すら関係なく役者業として成立しなかったのです。

「演技に凄味がない。アドリブが効かない」ことを見抜かれる程度に人間に劣る部分を指摘させ、俳優業においてAIは競う対象でないことを示してしまったわけです。

結局、AIの向き不向きで棲み分けていけばいいというのであれば、競争する必要もないわけですから、「AIに負けないぞという気持ち」を育むに至らないのです。

今回、俳優ヒューマギアの優位性を見せられなかったことで「俳優を目指すお子さま方、AIはセリフ覚えが良いだけで、俳優業に進出は難しいので大丈夫です」になってしまった、というところでしょうか。

 

声優は口先だけの演技なのか】

同じく、プロデューサーの大森氏が公式サイトのハイライトコラムにて、演じていた声優さんを現役のプロが演じるヒューマギア役としてカウントしなかった(芸人と今回の俳優しか現役のプロではない)香奈澤セイネを否定してしまうことについて考えていきます。

第7話で、セイネの声優としての優位性は声優の褒め方にありがちな使い分けられる七色の声という形で表現されていましたね。

これについて、私はとある声優さんの発言を思い出していました。

ラジオ番組でのメールに対する返答なのですが、「素人の方が声優やキャラクターの声マネをして動画をあげることがあるが、声優が演じる上で大事なのはキャラクターの心情を声でお芝居し、表現することなので、誰かに似せられる程度で自身が声優に向いてると思われては困る」と仰られていたのが印象に残っています。

他にも声優養成所で「口先だけで演技するが声優ではないので、声優ではなく俳優という意識でいろ」と講師していた声優さんの逸話も聞いたことがあります。

それらの声優のプロ視点の心構えを踏まえていくと、脚本家の声優への認識が滲み出たのか、声優という偏見の上辺だけをすくって抽象化した語り口にしているのか分かりませんが、俳優AIを否定することが声優AIでは成立するという判断を良からぬ方向へとひっくり返したように感じました。

「ヒューマギアに俳優は務まらないけど、声優は務まる。」

このゼロワン制作なりの同じ役者業におけるお芝居の難しさの解釈は「俳優>声優」だとする差別的図式を覆すためには、体を使ってするお芝居を俳優ヒューマギアが大きなアクシデントもなく成立すると示さなければならなかったのです。

 

【或人の信じるマシーン】

今回のドラマ撮影はそもそも飛電社の名誉挽回のための作品であるにもかかわらず、大御所俳優や監督にヒューマギアの優位性を示せていません。

優位性という観点で言えば作品内で最低の評価を叩き出したと言えるでしょう。

なんなら、滅の造った暗殺ちゃんに凄味のある演技やアドリブで劣るという様さえ見せてしまっています。

これは暗殺ちゃんが自我に目覚めたからこそ大御所俳優も認める演技めいたことができたと解釈できますが、そうなると、或人は自我も含めてヒューマギアを夢のマシーンとして認識していたかという問題になってくるんですよね。

話を前の項目に戻しますが、或人はセイネを声に変化をつけられることだけが価値とせず、亡き娘の人生のラーニングと自分を声優として育てるために必死に尽くした多澤の熱意に触れ、それに応えようした結果、自我が芽生えてしまったからこその順調な声優業だったと認識しているのでしょうか。

さらに現在、ヒューマギアの自我は主要キャラクターの間でマギア化する危険な要因とも認識されているので、俳優ヒューマギアとして成立しなかったことが或人社長および福添副社長…それどころかイズ、もっと言えば社員全員の総意として、ヒューマギアの商品価値は自我ではない(ことに気付いていない)という再確認の描写になってしまいました。

「ヒューマギアとどう付き合うか。要は人間次第」という寿司屋の大将の言葉を借りるならば、飛電社の人間は皆、ヒューマギアのあるかもしれない心に価値を見出していない扱いをしているのであり、第3話で拡がったヒューマギアに心がある/ない議論以前の「心がない前提のもの」に戻ってしまったのです。

つまり、飛電社的には社長も含め、自我など関係なく演技のラーニングだけで役者としてのお芝居が成立すると思ったから、大御所俳優との共演で企業の名誉回復が図れる『刑事ギリィ』だったわけです。

飛電社は演技についての勉強不足どころか自社製品の見込み違いで失敗している非常に間抜けな状態であるのは、第10話をご覧になられて受けた印象通りではないでしょうか。

今後、飛電社がヒューマギアの自我の魅力に気付き、マギア化の何らかの対策を練った後に新たな角度で世の中に売り込んでいく展開があるかもしれませんが、現段階では「ヒューマギアは夢のマシンなんだ!!」と高らかに語ってきた或人社長はヒューマギアの真価に目を向けていない、節穴で物を語ってるだけの存在だと決定付けられてしまったのです。

 

大和田氏を強調しすぎたことで、プロデューサーのメッセージは崩れ、俳優業以外の業種が安い存在となり、飛電社の自社製品への理解のなさをより示す形になりました。

これも全て1000%ザイアの思惑通りなのでしょうかね(鼻ほじ)

今回の目玉は大和田氏がご本人役を演じると謳っていましたが、作品内ほどこちらの世間では大御所扱いしておりませんし、「ご本人役」という謳い文句で話題性を狙うだけのアプローチに、曲がりなりにも話数を重ねて積み上げたモノを崩す価値があったのでしょうか?

 


 

早くも10話。AIと人間の関わりを描いてきた『ゼロワン』ですが、物語を進めていると時々主人公である飛電或人のキャラに、素で驚かされてしまうことがあります。「こんな奴いるの!?」と。

(中略)

逆にそんな或人のキャラクターに対して「ヘンだなぁ」と思いながらも、ある程度の説得力を感じられるのは、やっぱり今という時代のせいなのかもしれません。

<東映公式の大森Pのコラムより抜粋>

当のPは無意識に描写している或人の本質に気付けていないようで、ホッコリしますね。

 

 

長くなってしまいました。

話そうと思っていた刃と暗殺ちゃんについてはまた今度。

*1:「勝手にやっててくれ」のミルフィーユ仕立て~大御所俳優を添えて~

*2:滅多にない2話構成で初めてやる掘り下げキャラが敵の新参幹部というのもおかしな話