ラブチャンを真剣に考える(仮面ライダーゼロワン第33話「夢がソンナに大事なのか」考察)
感想記事(第33話に学ぶ やってはいけない物語構成)では「ラブチャンのくだりは不要!」と切り捨ててしまったのですが、私の中で不完全燃焼のままモヤモヤとしておりました。
ラブチャンと向き合うことを諦めてしまったんですよね。
改めて不要とさえ思えたラブチャンとは何だったのか、ラブチャンを通して制作は何を伝えたかったのかを考えていきたいと思います。
<過去最強のシンギュラリティ>
まず、私の中での疑問は「どうしてラブチャンは夢を持ち、シンギュラリティに達することが出来たのか」です。
ゼアとの通信が切れて自分の役割に戸惑ったジーペンに比べると迷いなく自分の夢を即答したラブチャンはかなり強い意思を持ったシンギュラリティ状態だと思います。
ヒューマギアは良くも悪くも関わった人間によってシュンギュラリティの方向性が左右されると劇中では描かれてきました。
似た境遇ではバスケ顧問のコービーの場合、熱心に指導するあまり部員にもその熱が伝わり、相乗効果的に「生徒の勝つ姿が見たい」という夢が彼の中で生まれシンギュラリティに達したんだと解釈しています。
では、熱心に指導した結果、楽しくテニスがやれればいい…なんならラブチャンを邪魔だという思いで真摯に向き合うことを拒んだ圭太に対して、どうして「圭太をプロテニスプレイヤーにする」という夢を厚かましく抱けたのでしょうか。
ゲスト脚本はコービー回の解釈が足りてないなぁ…と思ったのですが、ラブチャン書いた人って驚くことにコービー回を書いた脚本家と同一人物なんですよね…。
https://twitter.com/kakehi_maxxxaya/status/1252968490857754630?s=20
「アーク」とPCで打った途端、部屋に飾ってあるフォースライザーがガタッ!と落ちた。心臓が止まるかと思ったw
— 筧昌也 (@kakehi_maxxxaya) 2020年4月22日
<何もかもが不明な圭太>
圭太もよく分かりません。
圧の凄いラブチャンがずっと鬱陶しかったまでは分かるんですが、「彼女が怖がるから」という言い訳を用意してまで、テニスに思い入れがないことを隠す必要ってなんなんでしょう。
そもそも、飛電社からリコールが出ているのですから、素直に応じればラブチャンって捨てなくても消えてくれませんか?
機能停止したのは再起動した時の台詞から察するに、練習中のようでしたから隠蔽する必要が全く感じられないんですよね。
企業と契約してまでして個人用にテニスコーチヒューマギアを雇うぐらいなのですから、相当に教育熱心な家庭だと思われるのですが、大事な息子に教えるAIがリコールであれば親に隠れてこっそり捨てる必要もないんですよ。
プロテニスプレイヤーの親ということならばヒューマギアに頼らず自ら教えそうですし、誰が望んで熱心にテニスプレイヤーに育てようとしたのか本当に謎なんです。
圭太の両親の教育方針すらよく分かりません。
「テニスを楽しみたいだけ」という理由ならまだ可愛いのですが、圭太は語られていない憎悪というか…何か別の闇を抱えているように感じるのは私だけでしょうか(笑)
彼女の件に関して嘘でもいいのですが、圭太の部屋にわざわざラブチャンを待機させていたのは事実、目が合うのが怖いのも嘘彼女に代弁させた圭太の本音でしょう。
そこまで狭い家なのか、狭い家であればヒューマギアを雇う余裕はないのではないかと、考えれば考えるほど、圭太周りも不明な点が浮き上がってきます。
<ラブチャンに大した意味などなかった>
圭太は夢を持つように詰め寄られても何か夢を持つこともなく、ラブチャンは夢が途絶えかけても違う形で夢を持つような描写がありました。
ゼロワンという作品はゲストヒューマギアに夢を叶えさせる気がない、夢を見せ続けようとしているという考察を以前にお話しました(デルモの夢っていうのは呪いと同じなんだよ…制作は叶えさせる気がないからな!)が、逆に人間の圭太に関しては夢を持たないまま有耶無耶にするのには驚きましたね。
刃のように夢を持てと連呼されることを嫌う視聴者がいるので、そういった意味では彼の反発は救済になりそうですが、冒頭で飛電製作所の社訓を見せてそんな終わらせ方ってあるのかと。
ラブチャンの脚本的役割は、夢を持つことへの強要を不破のスタンスとリンクさせ刃を感情的にさせることと、場所を替えても自分の選んだ職を全うすればいいというメッセージになると思うんですが、結局、圭太は夢を持ちませんし、気持ちを切り替えたラブチャンの貰い手は現状、無さそうなのがモヤッとしてしまうポイントなんですよね。
不破や刃の立場とリンクしそうで、リンクしていません。
となるとラブチャンの真の役割とは単に松岡修造に似せた箸休めのネタキャラではないのかと思えてくるのです*1。
現に、先程も述べましたが人間側の着地は違えどラブチャンはコービーと似た立ち位置に、人に夢を持たせるように促す流れは漫画家回の情熱を持つよう諭された石墨と、少ないゲスト脚本の参加の割には内容が重複しています。
これは脚本家として引き出しが少ないと言わざるを得ませんね。
そうなれば、ネタ要素で変化を付けて過去回との違いを出さなければならないので、松岡修造風に夢夢うるさいとなる図や「部屋の中で起動停止してると怖いよね」、「彼女は嘘」、「どの道、今のラブチャンに居場所はない」などのツッコミどころを撒きまくったと考えると合点がいきます。
不明な点を敢えて散りばめられれば、それがネタとしてネットに拾われ、過去に重複した内容には目を向けられることもありませんし、話題になってしまえば作品にとってその方が有益でしょうし。
『ゼロワン』という作品そのものが話題性のためにふざけて見せる節がある、まさに刃の辞表パンチは最たる演出のように思います。
<浮かび上がる一つの説>
前回のデルモが美顔器を使っていたことに深い意味はなく、画としてアクセントになるとか「ヒューマギアには意味ないだろ!」と視聴者のツッコミ待ちするのと同じように今回のラブチャン周りは敢えてどこかおかしくしているのだと思います。
お仕事5番勝負途中にあったお見合い回のように、或人が暴走する危険の中でも どこかふざけてとっ散らかっているくだりのあった方がネットのウケも良いようですし、そこを目指したのかもしれません。
やはり刃と不破にだけ注視し、特に考えるべきキャラクターではなかったようです*2
ラブチャンや圭太などキャラクターに明確ないきさつが用意されていないのは、コントで狙ったボケのため用意されたキャラクターにバックボーンがないのと同じ、いわば“世界五分前仮説”的発想の創作事です。
分からない人のために説明しますと、世界五分前仮説というのは
世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。
異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。
それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。
したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。
そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである
— ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)
というものです。(丸々wikipedia引用)
記憶を改竄される前の本当の過去が全く語られなくても誰も気にしない、まるで五分前に世界が存在したかのようなゼロワンの薄っぺらさを説明つけてしまうような理論ですよね。
ある意味で「不破の過去などは何であろうが関係ない、今いる不破が大事なのだ」という本編の解釈に繋がるかもしれません。
…ラブチャンってまさかそういう意図が!?(制作はそこまで考えてるわけなかろうもん)